百人一首メモ

  1. 秋の田の かりほのいほとまをあらみ わが衣手ころもでは 露にぬれつつ
    秋の田んぼの近くに建てた仮小屋の屋根の網目が粗すぎて、隙間から落ちてくる露で私の服は濡れっぱなしだ。
    詠み人
    天智天皇(626〜671)
    百人一首に出てくる他の皇族、源氏、平氏の先祖。
    藤原氏の始祖である中臣鎌足とともに大化の改新を行った。
    出典では読人しらず
    出典
    『後撰集』秋中(302)
    詞書
    題しらず
    詠み人知らずだったのにいつのまにか、農民のことを思いやる天皇の歌ということになった。
    「かりほ」は「仮庵」と「刈り穂」の掛詞。
    「苫をあらみ」は「苫があらいので」という意味。
  2. 春過ぎて 夏にけらし 白妙しろたへの 衣干すてふ あま香具山かぐやま
    春が過ぎて夏が来たらしい。香具山に、白妙の着物が言い伝えどおりに干してある。
    詠み人
    持統天皇(645〜702)
    天智天皇[1]の娘。
    出典
    『新古今集』夏(175)
    詞書
    題しらず
    万葉集では「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香久山」だった。
    「白妙」はここでは単に生地の名前かもしれない。後年、真っ白いことの比喩に使われるようになった言葉。
    衣の白と山の緑のコントラストが鑑賞ポイント。
  3. あしびきの 山鳥やまどりの尾の しだり尾の ながながしを 独りかも
    山鳥の尻尾の、垂れ下がった尻尾のような長い長い夜を、私はひとりで寝るのだろうか。
    詠み人
    柿本人麿(柿本人麻呂)
    山部赤人[4]とともに歌聖と称される。
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『拾遺集』恋3(778)
    詞書
    題しらず
    人麿の作ではないらしい。
    山鳥はオスとメスが離れて寝ると言われている。
    「あしびきの」は「山鳥」の「山」につなげるための枕詞。
    上の句全体が「ながながし」につなげるための序詞。
  4. 田子たごの浦に うちでて見れば 白妙しろたへの 富士の高嶺たかねに 雪は降りつつ
    田子の浦に出ると、真っ白い富士山の高い頂に、雪がさかんに降っているのが見えた。
    詠み人
    山部赤人
    柿本人麿[3]とともに歌聖と称される。
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『新古今集』冬(675)
    詞書
    題しらず
    万葉集では「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」だった。
    富士山に降っている雪の粒が田子の浦から見えるわけもなく、想像で言っているものと思われる。
  5. 奥山に 紅葉もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき
    人里離れた山に、紅葉の落ち葉を踏んで道を作りながらやって来て、相手を求めて鳴く鹿の声を聞くときは、秋の悲しさがいっそう身に沁みる。
    詠み人
    猿丸大夫
    三十六歌仙の一人。
    謎の人物。間違いなく彼が詠んだとされる歌はひとつもない。実在しなかったとすら言われる。
    出典
    『古今集』秋上(215)
    詞書
    是貞親王の家の歌合の歌
    秋の鹿はメスを求めてピーと鳴くらしい。
    当初「もみじ」は「黄葉」と書き、ハギのことを指した。定家が書き写すときに「紅葉」にした。これだとカエデになる。
    踏み分ける主体が鹿か人か不明。どっちともとれるし、どっちととってもよい。
  6. かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば ぞ更けにける
    カササギが天の川にかけるという橋のように、地上の階にも霜が降りている。その白さを見て、夜が更けたことを知る。
    詠み人
    中納言家持(大伴家持/718?〜785)
    三十六歌仙の一人。
    万葉集の編纂者。
    出典
    『新古今集』冬(620)
    大伴家持の作ではないらしい。
    カササギは七夕伝説で織姫と彦星のために橋を作ったと言う鳥。
    橋が天の川か霜の降りた宮中の階段かで二つの解釈がある。前者は天の川を霜の降りた橋にたとえていることになり、後者は橋に降りた霜を天の川に見立てていることになる。
  7. あまの原 ふりさけ見れば 春日かすがなる 三笠みかさの山に でし月かも
    大空を見上げると月が出ていた。あれは春日にある三笠山の上に出ていた月と一緒なのだろうか。
    詠み人
    阿部仲麿(阿倍仲麻呂/698〜770)
    出典
    『古今集』羈旅(406)
    詞書
    もろこしにて月を見てよみける
    この歌は、むかしなかまろをもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへてえかへりまうてこさりけるを、このくにより又つかひまかりいたりけるにたくひてまうてきなむとていてたちけるに、めいしうといふ所のうみへにてかのくにの人むまのはなむけしけり、よるになりて月のいとおもしろくさしいてたりけるを見てよめるとなむかたりつたふる
    百人一首の中で唯一、中国で詠まれた歌。
    もともと漢詩で、誰かが和歌に翻訳したという説もある。
    仲麻呂は遣唐使として唐に渡ったが、皇帝玄宗に気に入られてなかなか日本に帰れなかった。ようやく皇帝の許可を得て日本に帰れるというときに読んだ歌。しかし船が難破して、結局日本に帰れなかった。
  8. わがいほみやこ辰巳たつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
    私の草庵は京都の東南にある。鹿が住むようなところだけど、このように元気に暮らしている。世の中の辛さから逃げて宇治山に住んでるんだろうって、世間では言っているようだけど。
    詠み人
    喜撰法師
    六歌仙の一人。
    三十六歌仙じゃない。
    貫之曰く「宇治山の僧きせんは、ことばかすかにして、はじめをはり、たしかならず。いはば、秋の月をみるに、あかつきの雲にあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず。」
    出典
    『古今集』雑下(983)
    「しかぞすむ」が「鹿ぞ棲む」との掛詞というのは考え過ぎだろうか。
    昔は十二支で方角を表した。東南は辰と巳の中間なので辰巳となる。
  9. 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
    桜の色香も私の容姿も、むなしく衰えてしまったよ。桜は長雨に降られて。私は恋愛に時間を費やし思い悩んでいるうちに。
    詠み人
    小野小町
    六歌仙の一人。美人だったと言われる。
    三蹟の一人小野道風のいとこという説がある。
    貫之曰く「をののこまちは、いにしへのそとほりひめの流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめるところあるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし。」
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『古今集』春下(113)
    「うつる」は「色褪せる」ともとれるが、桜なので「散る」ととるのが正確か。
    小野小町の別の歌「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」。寝る前に考えていたことが夢に出るというのは現代人なら納得するが、当時の認識とは逆だった。
  10. これやこの くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂あふさかの関
    これがあの、行く人も帰る人も、知っている人も知らない人も、別れたりまた会ったりする、逢坂の関なのだね。
    詠み人
    蝉丸
    謎の人物。盲目だったらしい。
    ぼうずめくりで論争を呼ぶが、れっきとした坊主である。
    出典
    『後撰集』雑1(1089)
    詞書
    相坂の関に庵室をつくりてすみ侍りけるに、ゆきかふ人を見て
    行く帰る、知る知らぬ、別れ逢ふ。対比が3回も出てくる賑やかな歌。
    百人一首で濁音が入らない歌はこれだけ?
  11. わたの原 八十島やそしまかけて 漕ぎでぬと 人には告げよ 海人あまの釣り舟
    大海原を沢山の島々を目指して船出して行ったと、みんなには言っておいてくれ。小舟の漁師よ。
    詠み人
    参議篁(小野篁/802〜852)
    嵯峨天皇に「子子子子子子子子子子子子」を読めというなぞなぞを出され、「ねこのここねこ ししのここじし」と答えたという逸話が残る。
    閻魔大王の助手をしていたという伝説がある。
    出典
    『古今集』羈旅(407)
    詞書
    おきのくにになかされける時に舟にのりていてたつとて、京なる人のもとにつかはしける
    遣唐使を批判したために天皇の怒りを買い、流刑地の隠岐に向かうときに読んだ歌。その後許されて京都に戻る。参議になったのはこの後。
    乗っている漁師ではなくあくまで船に話しかけているという体で、擬人法の一種。
  12. 天つ風 雲の通ひ 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ
    空を吹く風よ。雲の中の通り道を塞いでおくれ。天女のような舞姫の姿を、しばらくここに留めておきたい。
    詠み人
    僧正遍昭(良岑宗貞/816〜890)
    六歌仙の一人。
    三十六歌仙の一人。
    貫之曰く「僧正遍昭は、歌のさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなを見て、いたづらに心をうごかすがごとし。」
    出典
    『古今集』雑上(872)
    詞書
    五節のまひひめを見てよめる
    五節の舞を見てのひとこと。エロ坊主めと思われがちだが、この歌を読んだ時点では出家前なのでセーフである。
    天女はすぐ帰るもの、という共通認識があった。舞が短かすぎたというわけではないはず。
  13. 筑波嶺つくばねの 峰より落つる みなの川 恋ぞ積もりて ふちとなりぬる
    筑波山の峰から流れ落ちる男女川の水が溜まって淵となるように、私の恋心も積もって深くなりました。
    詠み人
    陽成院(陽成天皇/868〜949)
    第57代の天皇。若くして廃位された。
    院とは、やめた天皇につける称号。
    出典
    『後撰集』恋3(776)
    詞書
    つりとののみこにつかはしける
    この歌の相手はのちの奥さん。よかったね。
    上皇歴65年で歴代一位。
  14. 陸奥みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに
    陸奥国名産の信夫もじずりの乱れ模様のように、私の心は乱れ始めました。誰のせいでしょうか。私以外で。
    詠み人
    河原左大臣(源融/822〜895)
    嵯峨天皇の息子。
    河原院という別荘を建てて、風流三昧を過ごした。そこの庭では陸奥国の風景が再現され、塩づくりもできたらしい。
    出典
    『古今集』恋4(724)
    「初め」と「染め」で掛詞になっている。
    現在の福島県に信夫もじずりという名物の染め物があったらしい。再現されたものを見ると結構派手。一方で材料のシノブから来ているという説も。
  15. 君がため 春の野にでて 若菜摘む 我が衣手ころもでに 雪は降りつつ
    あなたのために春の野原に出て若菜を摘んでいる私の袖に雪が降りかかっています。
    詠み人
    光孝天皇(822~895)
    第58代の天皇。第57代の陽成天皇[13]の子供や兄弟ではなく、わりと遠い親戚。
    出典
    『古今集』春上(21)
    詞書
    仁和のみかとみこにおましましける時に、人にわかなたまひける御うた
    当時は草花を贈るときに和歌を添える風習があった。
    女性が男性に向けた歌の体をとっているが、世話になった藤原基経に薬草として若菜を贈った時の歌かもしれない。
  16. 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとしきかば 今帰り来む
    みんなとお別れして私が行く因幡国の稲葉山の峰には松が生えている。君たちが待っていると聞いたら、すぐ帰って来よう。
    詠み人
    中納言行平(在原行平/818〜893)
    在原業平[17]の兄。
    出典
    『古今集』離別(365)
    詞書
    題しらず
    因幡国、現在の鳥取県の東半分に出向するとき、都に残る友達に向けて詠んだ歌。
    この歌を部屋に貼っておくと、ペットが帰ってくるおまじないになる。
  17. ちはやぶる 神代かみよも聞かず 竜田川たつたがは からくれなゐに 水くくるとは
    神々の時代の話としても聞いたことがありません。竜田川の水が唐紅色にくくり染めされるとは。
    詠み人
    在原業平朝臣(825〜880)
    六歌仙の一人。
    三十六歌仙の一人。
    イケメンだったらしい。女性に唐突に歌を送られて即興でいい歌を返したというエピソードがあり、そりゃあモテると思わせる。
    貫之曰く「ありはらのなりひらは、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花のいろなくて、にほひのこれるがごとし。」
    出典
    『古今集』秋下(294)
    詞書
    二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみちなかれたるかたをかけりけるを題にてよめる
    「ちはやぶる」の発音は文字通り。
    紅葉が描かれた屏風を前に読んだ歌。そのためかなり空想が入っている。
    水を「くくる(くくり染めにする)」のか、水が紅葉の下を「くぐる」のかで解釈が分かれる。神代も聞かぬことだけに、他の歌に用例も見られず、決め手がない。
    「紅葉」と言わずに紅葉を表現しているののが芸術的。
    落語でも有名。ご隠居の解釈は「千早太夫に振られ、神代にも話を聞いてもらえなかった竜田川関がおからをくれないので、身投げしたトワ(千早の本名)」。
  18. すみの 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ
    住吉の岸には波が打ち寄せるのに、夜の夢の中の通い道さえ、あなたは通って来てくれません。人目を避けているのでしょうか。
    詠み人
    藤原敏行朝臣(?〜901)
    三十六歌仙の一人。
    字がうまい。
    出典
    『古今集』恋2(559)
    詞書
    寛平御時きさいの宮の歌合のうた
    女の立場で詠んだ歌だろうか。男から女に向けた歌でも矛盾はない。
    問いかけるのでなく、自問自答であるという説もある。
    当時は今と逆で、誰かのことを思っている人が相手の夢に出るものと思われていた。
  19. 難波潟なにはがた 短きあしの ふしのも 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
    難波潟に生えている短い葦の節と節の間のような、わずかな時間でさえも会ってくれないで、あなたは私に生きろとおっしゃるのですか。
    詠み人
    伊勢
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『新古今集』恋1(1049)
    詞書
    秋ごろうたての人の物いひけるに
    この歌の相手は藤原中平。
    難波潟は、淀川河口付近。葦がたくさん生えていた。
    「世」は、ふしの間と同じ意味のを踏まえた縁語。漢字が一緒でややこしい。
    成長した葦の節の間は言うほど短くないらしい。
  20. わびぬれば 今はた同じ 難波なにはなる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
    悩みに悩み抜いたので、今は死んだも同じ。難波の澪標にことよせて、死んでも会おうと思う。
    詠み人
    元良親王(890〜943)
    陽成天皇[13]の息子。父の退位後に生まれた。
    天皇になる見込みはなかったが、身分は高いままだったので、風流に生きた。
    出典
    『後撰集』恋5(961)
    詞書
    事いてきてのちに、京極御息所につかはしける
    宇多天皇の女御との秘密の恋がバレたときの歌。
    「はた」は「また」を強めた言い方。
    みをくし」は海や川に立てられた標識のことだが、「身を尽くし」と読みが一緒だったばっかりに和歌に頻繁に使われることになった。
  21. 今来むと いひしばかりに 長月ながつき有明ありあけの月を 待ちでつるかな
    あなたが今来ると言ったものだから毎晩お待ちしていましたが、もう九月も下旬、待ってもいない有明の月を出迎えてしまいました。
    詠み人
    素性法師(良岑玄利)
    遍昭[12]の息子。
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『古今集』恋4(691)
    坊主の身で女性の気持ちになって詠んだ歌。そうじゃないと困る。
    一晩待って有明の月が出る時間になったという解釈と、何日も待って有明の月が出る月の後半になったという解釈がある。
    「今来む」は話者視点の言い方。直接話法なら「今行く」になるところ。
    「今から行く」は、電話かチャットにありそうな内容。当時なら伝言か手紙だろうか。
  22. 吹くからに 秋の草木くさきの しをるれば むべ山風やまかぜあらしといふらむ
    吹いたそばから秋の草木がしおれるから、山風のことをあらしというのだろう。なるほど。
    詠み人
    文屋康秀
    六歌仙の一人。
    文屋朝康[37]の父。
    三河掾になって任地に行く際に小野小町[9]を誘った逸話が残っているらしい。あれ『うた恋い』の創作じゃなかったのか。
    貫之曰く「ふんやのやすひでは、ことばはたくみにて、そのさま身におはず。いはば、あき人のよききぬきたらんがごとし。」
    出典
    『古今集』秋下(249)
    詞書
    これさたのみこの家の歌合のうた
    本当は息子の朝康[37]の歌らしい。すると朝康は百人一首に2首選ばれていることになる。
    「山」と「風」で「嵐」。「あらす」から「あらし」。言葉遊びに終始している。昔はこれでウケたらしい。
    らん」と「らむ」はたぶん関係ない。
  23. 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
    月を見ると、たくさんのことが悲しく感じられる。別に私ひとりのための秋ではないのに。
    詠み人
    大江千里
    在原行平[16]在原業平[17]兄弟の甥。すると彼らの別の兄弟姉妹が千里の親ということになるが、それが誰なのか分からない。
    漢詩の翻案の名手。
    シンガーソングライター。
    出典
    『古今集』秋上(193)
    詞書
    これさたのみこの家の歌合によめる
    「月」と「わが身」、「千々」と「ひとつ」が対比になっている。
    漢詩の技法を和歌に導入した。当時の流行であり、大江千里はそういうのが得意だった。
  24. このたびは ぬさも取りあへず 手向山たむけやま 紅葉もみぢの錦 神のまにまに
    今回の旅は、幣の用意もできませんでした。代わりに手向山の錦のような紅葉を捧げます。神のお気に召すままにお受け取りください。
    詠み人
    菅家(菅原道真/845〜903)
    宇多天皇と醍醐天皇に仕えた政治家。やる意味が薄らいでいた遣唐使を廃止するなどした。
    宇多天皇の退位後、藤原氏の陰謀で太宰府に飛ばされそこで亡くなる。その後都で天災が相次いだとき、それが怨霊と化した道真によるものと考えられたため、祀られて天満大自在天神になった。
    「菅家」という珍しい表記は、神様ゆえに名指しを避けているものと思われる。
    出典
    『古今集』羈旅(420)
    詞書
    朱雀院のならにおはしましたりける時にたむけ山にてよみける
    宇多天皇の行幸に際して詠んだ歌。
    供え物になるほど紅葉が綺麗だったということ。
    たび」と「たび」の掛詞。
    幣とは神様にお供えする色とりどりの紙吹雪のようなもの。それを忘れたから紅葉で代用したという話。
    「まにまに」は漢字で書くと「まにまに」。「まに・まに」ではない。
  25. にしはば 逢坂山あふさかやまの さねかづら 人に知られで くるよしもがな
    会って一緒に寝るという意味を名前に含んでいるのなら、逢坂山のサネカズラよ、誰にも知られないであの人のもとにたどり着く方法は無いものか。
    詠み人
    三条右大臣(藤原定方/873〜932)
    三条に家があった。
    他の歌人を助け、和歌の普及に努めた。
    出典
    『後撰集』恋3(700)
    詞書
    女につかはしける
    「何し負う」は現代語訳しづらい。発想としては験担ぎのようなもの。
    「さねかずら」は草の名前。「さね」の部分は「さ寝」、一緒に寝るという意味にも取れる。昔の人はそこに魔法的なつながりがあると考えた。
    実際にサネカズラを添えて相手に送った歌とも言われる。
    「来る」はこの場合、女性のところに「行く」と言う意味。相手視点なのが英語の「come」に似ている。
    「来る」と「繰る」で掛け言葉にもなっている。
  26. 小倉山おぐらやま 峰のもみぢ 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
    小倉山の紅葉よ、心があるなら、次の行幸まで待ってほしい。
    詠み人
    貞信公(藤原忠平/880〜949)
    菅原道真の左遷に加担しなかった人格者。
    出典
    『拾遺集』雑秋(1128)
    詞書
    亭子院大井河に御幸ありて、行幸もありぬへき所なりとおほせたまふに、ことのよしそうせんと申して
    天皇のお出かけを行幸みゆき、上皇や法皇のお出かけを御幸ごこうという。
    宇多法皇が小倉山に御幸したとき、紅葉が立派だったので、息子の醍醐天皇にも見せたいと言った。その気持ちをを藤原忠平が代わりに歌にした。
    天皇になんとかして見せたいことだけを歌うことで、紅葉の美しさを間接的に称える。
    後日行幸は無事に行われた。よかったね。
    小倉山が紅葉の名所になったのはこのときから。同地に住んで紅葉が好きだった定家にとって外せない歌。
  27. みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ
    瓶原を泉川が流れている。いつか見たから、こんなにあの人を好きなのか。いや、一度も見ていないのにだ。
    詠み人
    中納言兼輔(藤原兼輔/877〜933)
    紫式部[57]の曽祖父。
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『新古今集』恋1(996)
    兼輔の作ではないらしい。
    「み」が三回出てきてみずみずしい歌。
    「いつ見たのだろう」と問いかける言い回しで、「一度も見ていない」という意味になる。こういうのを反語という。現代語でも「知るか」で「知らない」を意味することがある。
    「いつ見たのか忘れた」とする解釈もある。
    「わきて」は「湧きて」と「分きて」の掛詞。
  28. 山里やまざとは 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
    山里は、冬にとりわけ寂しさが際立つ。来客も途絶えて、草も枯れると思うと。
    詠み人
    源宗于朝臣(877~933)
    皇族だったが臣籍降下して源の姓を賜った。
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『古今集』冬(315)
    詞書
    冬の歌とてよめる
    古来寂しい季節というのは秋が定番で、冬が寂しいというのが画期的だったらしい。
    寂しいと言うものの、悪いものとしては捉えていないようだ。
    「かれ」は「枯れ」と「離れ」の掛詞。
  29. 心あてに 折らばや折らむ 初霜はつしもの おきまどはせる 白菊しらぎくの花
    折るとしたら、あてずっぽうで折るとしよう。初霜が降りてどこだかわからなくなった、白菊の花を。
    詠み人
    凡河内躬恒
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『古今集』秋下(277)
    詞書
    しらきくの花をよめる
    折るなよ。
    白菊と雪の見分けがつかないとは、いくらなんでも大げさである。イメージ重視の歌。
    北海道ではフロストフラワーという、霜が花みたいになる現象があるらしい。
  30. ありあけの つれなく見えし 別れより あかつきばかり 憂きものはなし
    有明の月がつれなく見えたあの別れ以来、夜明けほど辛いものはありません。
    詠み人
    壬生忠岑
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『古今集』恋3(625)
    有明の月とは、夜の後半から登ってくる月。夜が明けてもまだ空に有るのでそう呼ばれる。
    女性の元を訪れた男性は、朝になったら帰らなければならない。それを知らせるのが有明の月。
    つれなく見えた理由で解釈が分かれる歌。古今集では、相手がつれないから月もつれなく見えたとする。定家は、楽しい時間の終わりを知らせる月がつれなく見えたとした。
  31. 朝ぼらけ ありあけの月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
    夜が明けるころ、有明の月が出ているのかと思えるほど、吉野の里に白い雪が降り積もっていた。
    詠み人
    坂上是則
    坂上田村麿の子孫で、蹴鞠の達人。大和掾。
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『古今集』冬(332)
    詞書
    やまとのくににまかれりける時に、ゆきのふりけるを見てよめる
    和歌にはただの想像で詠んだ歌も多いが、これは実際に吉野に行って体験して詠んだ歌。
    朝ぼらけは太陽の光がすこしずつ空を照らし始める頃。雪が積もっていると、雪がその光を反射して普段よりは明るくなる。それで有明の月が出ているのかと勘違いしたと言う話。
    暁→曙→朝ぼらけ→日の出
  32. 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ もみぢなりけり
    山間を流れる川に風がかけた柵とは、流れきれなくて溜まった紅葉のことだった。
    詠み人
    春道列樹(?〜920)
    壱岐守。赴任する前に亡くなった。
    物部氏の子孫。伝わっている歌が少なく、詳しいことはよくわからない。
    出典
    『古今集』秋下(303)
    詞書
    しかの山こえにてよめる
    実際に旅の途中で見た景色。
    「しがらみ」は、川の流れを変えるための人工物。現代語だと行動を制限する邪魔者を表すが、もともと悪い意味ではなかった。
    比叡山と如意岳の間の道「志賀の山越え」で詠んだ歌。「しがらみ」はたぶん関係ない。
  33. ひさかたの 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ
    のどかな光が差す春の日なのに、どうしてこんなに落ち着きなく桜は散るのだろう。
    詠み人
    紀友則
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『古今集』春下(84)
    詞書
    桜の花のちるをよめる
    「の」が四回出てくる。のびのびした歌。
    「ひさかたの」は枕詞。これは枕詞の中でも特に、かかり方や成立過程に不明な点が多い。「ひ」のつくものや、「空」「光」関連の言葉にかかるとされる。
  34. たれをかも 知る人にせむ 高砂たかさごの 松も昔の 友ならなくに
    誰を知り合いとしたらいいのか。高砂の松だって昔からの友人ではないのに。
    詠み人
    藤原興風
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『古今集』雑上(909)
    松は長寿のシンボル。
    長生きはめでたいものだが、この歌は長生きしたことで感じたつらいことを詠んでいる。
    こっちの「高砂」は現在の兵庫県にある地名。
    「なくに」は上代語。「ないのに」みたいな意味。
  35. 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の ににほひける
    あなたの気持ちは、さて、わかりません。この故郷の奈良では、少なくとも花は昔と同じように匂っています。
    詠み人
    紀貫之(866?〜945?)
    古今和歌集の選者。その序文で彼が挙げた六人の歌人が、のちに六歌仙と呼ばれるようになった。しかしそれぞれへの評論はわりと辛辣。
    百人一首に選ばれなかった最後の六歌仙「大伴のくろぬしは、そのさまいやし。いはば、たきぎおへる山人の、花のかげにやすめるがごとし。」
    土佐日記の作者でもある。男は漢字だけ、女はひらがなを使うのが普通だった頃、女が書いたと言う体でひらがなで書かれた日記。
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『古今集』春上(42)
    詞書
    はつせにまうつることにやとりける人の家にひさしくやとらて、ほとへてのちにいたれりけれは、かの家のあるしかくさたかになむやとりはあるといひいたして侍りけれは、そこにたてりけるむめの花ををりてよめる
    人は知らないけどとすっとぼけて、花のことを話す。ちょっと皮肉っぽい。
    主人の性別ははっきりしない。
  36. 夏のは まだよひながら 明けぬるを 雲のいづこに 宿るらむ
    夏の夜は、まだ宵だと思っているうちに明けてしまう。月は雲のどこに隠れたのだろう。
    詠み人
    清原深養父
    清少納言の曽祖父。
    出典
    『古今集』夏(166)
    詞書
    月のおもしろかりける夜、あかつきかたによめる
    清少納言が枕草子に書いた「夏はよる、月の頃はさらなり」はこれを踏まえたものかもしれない。
  37. 白露しらつゆに 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ たまぞ散りける
    白露に風がしきりに吹き付ける秋の野原は、糸を通してない玉が舞い散ったかのようだ。
    詠み人
    文屋朝康
    出典
    『後撰集』秋中(308)
    詞書
    延喜御時、歌めしけれは
    露を玉に例えるのはよくあるが、ほどけた数珠に例えて飛び散る動きを表現したところが新しい。
  38. 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
    忘れられる我が身を心配しているわけではありません。永遠の愛を神に誓ったために、これから神罰を受けることになる、あなたの命が惜しまれるのです。
    詠み人
    右近
    恋多き女性。百人一首の中でも、元良親王[20]、権中納言敦忠[43]、中納言朝忠[44]の3人と付き合っている。
    出典
    『拾遺集』恋4(870)
    気づかいか恨み節かで見方が変わる。振られた自分を顧みず、振った相手の命の心配をしているのか。皮肉を込めて呪いの言葉を投げかけているのか。
  39. 浅茅生あさぢふ小野おの篠原しのはら 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき
    丈の低いチガヤが生えている小野の篠原。忍んでも忍びきれません。どうしてこんなにあなたが好きなのか。
    詠み人
    参議等(源等/877〜951)
    出典
    『後撰集』恋1(577)
    詞書
    ひとにつかはしける
    「浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや いふ人なしに」の本歌取り。後半一気にテンションが上がるところでオリジナリティを出している。
    「浅茅生」も「小野」も「篠原」も地名っぽいけど全部一般名詞。
  40. 忍ぶれど 色にでにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで
    隠していたけど顔色にでてしまった、私の恋。誰を思っているのかと、人に聞かれるまでに。
    詠み人
    平兼盛(?〜990)
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『拾遺集』恋1(622)
    詞書
    天暦御時歌合
    これと次の歌は、村上天皇による天徳内裏歌合で読まれた歌。二人がそれぞれ歌を詠んで、どっちがいいか判定するもの。
    どっちもいい歌だったので審判も決めかねた。天皇がぽつりとこっちの歌を呟いたので勝ちとなった。
    結果から述べて、あとで理由を書くことで印象を高めている。プレゼンが上手い。
  41. 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
    恋をしているという私の噂はもう広まってしまった。人に知られないようにこっそり思い始めたところなのに。
    詠み人
    壬生忠見
    出典
    『拾遺集』恋1(621)
    詞書
    天暦御時歌合
    歌合で負けたほう。負けたショックで死んだという伝説がある。
  42. 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
    約束しましたよね。お互いの涙で濡れた袖を絞りながら、末の松山を波が決して越えないように、私たちの心も決して変わらないと。
    詠み人
    清原元輔(908〜990)
    清少納言の父。
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『後拾遺集』恋4(770)
    詞書
    心變り侍りける女に、人に代りて
    女に振られた男のために代作したもの。
    末の松山は今の宮城県にある山。波が被らないことで有名。永遠の愛のたとえに使われた。
    実のところ、この歌のずっと昔に津波が末の松山を越えたことがあった。元輔はそれを知っていたのかもしれない。
  43. 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり
    会って見てからのこの気持ちに比べたら、その前は何も思ってないも同然だった。
    詠み人
    権中納言敦忠(藤原敦忠/906〜943)
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『拾遺集』恋2(710)
    会った翌日に相手に送る後朝の歌なのか、何かの理由で永遠に会えなくなったときの歌なのかはわからない。
  44. 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
    いっそ会ってくれることが全くなければ、かえって、あなたのことも私自身も恨まなかっただろうに。
    詠み人
    中納言朝忠(藤原朝忠/910〜966)
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『拾遺集』恋1(678)
    詞書
    天暦御時歌合に
    今までに一度も会えていないのか、会えていたのが会えなくなったのかで見方が変わる。
  45. あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
    かわいそうだと言ってくれそうな人も思い当たらないので、私はむなしく死んでしまいそうです。
    詠み人
    謙徳公(藤原伊尹/924〜972)
    出典
    『拾遺集』恋5(950)
    詞書
    ものいひ侍りける女の、のちにつれなく侍りて、さらにあはす侍りけれは
    本当に死ぬ気というよりも、同情を誘いたい下心が見え隠れする。
    「いたずらになる」で単純に「死ぬ」という意味になることもある。
    百人一首に生き死にの話題は多いが、「死ぬ」は一回も出てこない。
    源氏物語の『若菜』『柏木』などの帖に影響をあたえたらしい。
  46. 由良ゆらのとを 渡る舟人ふなびと かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな
    由良の海峡を通って行く船乗りが、舵を壊して行先も分からない。そんな恋の道だよ。
    詠み人
    曾禰好忠
    斬新な歌風が持ち味。扱いにくい性格も災いして生前は評価されなかった。
    丹後掾という役職だったので、曾禰丹後掾、略して曾丹と呼ばれていた。よくある略し方だが、本人は嫌だったらしい。
    出典
    『新古今集』恋1(1071)
    由良がどこなのかははっきりしない。
    「絶ゆ」の他動詞的な用例は他にないので、「梶を絶え」はちょっとおかしい。そこで「梶緒絶え」だとする説が出てきた。
  47. 八重やへむぐら 茂れる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり
    ムグラが幾重にも生い茂るこの寂しい屋敷に、人は現れないけれど、秋はやって来たよ。
    詠み人
    恵慶法師
    出典
    『拾遺集』秋(140)
    詞書
    河原院にて、あれたるやとに秋来といふ心を人人よみ侍りけるに
    河原左大臣[14]が建てた河原院が、年月を経てすっかり寂れてしまった様子を歌ったもの。
    寂れた様子を嘆くわけでもなく、むしろ美しいものと捉えているふしがある。
  48. 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな
    激しい風によって岩に打ち付けられる波のように、私だけが心を砕いて思い悩んでいる今日このごろ。
    詠み人
    源重之(?〜1000)
    三十六歌仙の一人。
    出典
    『詞花集』恋上(211)
    詞書
    冷泉院春宮と申しける時百首の歌奉りけるによめる
    当たって砕けろとは良く言うが、これは当たったし砕けたけど反応がなかった例。
  49. みかきもり 衛士ゑじのたく火の よるは燃え 昼は消えつつ 物をこそ思へ
    宮中警護の兵士の焚く火のように、夜は燃え上がり、昼は消え入って、恋に悩んでいるよ。
    出典
    『詞花集』恋上(225)
    詠み人
    大中臣能宣朝臣(921〜991)
    官職っぽいけど本名。中臣鎌足が藤原鎌足になったあと、ほかの中臣氏の子孫が大中臣氏になった。
    三十六歌仙の一人。
    コントラストが強い。
  50. 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
    あなたに会うためなら惜しくなかったこの命ですが、今ではそれも長く続いてほしいと思っています。
    詠み人
    藤原義孝(954〜974)
    出典
    『後拾遺集』恋2(669)
    詞書
    女の許より歸りて遣はしける
    後朝の歌。
    歌に込めた願いも裏腹に、21歳で亡くなった。
  51. かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしも知らじな もゆる思ひを
    こんなに好きだと言うこともできません。伊吹山のヨモギのように燃える私の思いを、あなたはご存知ないでしょうね。
    詠み人
    藤原実方朝臣(?〜998)
    藤原行成と和歌のことで口論になり冠を奪って投げた。
    出典
    『後拾遺集』恋1(612)
    詞書
    女にはじめてつかはしける
    さしも草はヨモギのこと。お灸に使った。お灸だから燃える。ゆえに「もゆる」は縁語となる。
    「もゆる」が「燃ゆる」と「萌ゆる」の掛詞とする説は見当たらない。
  52. 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほうらめしき 朝ぼらけかな
    朝になったら次は夜になるものと分かってはいますが、それでもやはり恨めしいのは明け方です。
    出典
    『後拾遺集』恋2(672)
    詠み人
    藤原道信朝臣(972?〜994)
    詞書
    女のもとより雪ふり侍りける日かへりてつかはしける
    冬の長い夜でもまだ足りない。
  53. 嘆きつつ ひとりる夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る
    泣きながら一人で寝る夜が明けるまでの間は、どんなに長いものか知っていますか。
    詠み人
    右大将道綱母(藤原道綱母/936?〜995)
    蜻蛉日記の作者。
    こんな呼び名だが、息子の藤原道綱よりよっぽど有名である。
    出典
    『拾遺集』恋4(912)
    詞書
    入道摂政まかりたりけるに、かとをおそくあけけれは、たちわつらひぬといひいれて侍りけれは
    夫の藤原兼家が他の女性のところから朝帰りしたとき、門を開けずに送った歌。
    残りの愚痴は蜻蛉日記にかかれることに。
  54. 忘れじの すゑまでは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな
    いつまでも忘れないと言うその言葉も、将来どうなるかまではわからないので、今日を最後に死んでしまいたい。
    詠み人
    儀同三司母(高階貴子/?〜996)
    出典
    『新古今集』恋3(1149)
    詞書
    中関白かよひそめ侍けるころ
    「忘れじ」とわざわざ言うのは、それだけ忘れられる事例が多かったということ。
  55. おとは 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
    滝の流れる音が聞こえなくなってずいぶん経つけれど、名声は流れ伝わって今でも聞こえてくるよ。
    詠み人
    大納言公任(藤原公任/966〜1041)
    三十六歌仙を選んだ人。
    御幸の際に和歌の船、漢詩の船、管弦の船のいずれにも乗る資格があったので、三船の才と呼ばれた。
    出典
    『千載集』雑上(1035)
    詞書
    大覚寺に人人あまたまかりたりけるに、ふるきたきをよみ侍りける
    嵯蛾の大学寺にまかりて、これかれ歌よみ侍りけるによみ侍りける
    勅撰集に2回載っているが、片方では「おと」が「いと」になっている。
    「音」は「おと」と読む。「ね」のほうが収まりがいい気がする。
    「な」がいっぱいでてくる。
  56. あらざらむ この世のほかの 思ひいでに 今ひとたびの 逢ふこともがな
    私はもうじきこの世を去ります。あの世への思い出にもう一度お会いしたいものです。
    詠み人
    和泉式部
    出典
    『後拾遺集』恋3(763)
    詞書
    心地例ならず侍りける頃、人のもとにつかはしける
    一見一途な恋の歌に聞こえるが、和泉式部は恋多い女性なので、会いたい相手は複数かもしれない。
    「思ひ出」は「おもいいで」と読む。
  57. めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲がくれにし 夜半よはの月かな
    久しぶりに会ったのに、今見たのが本当にあなたかも分からないうちに、あなたは帰ってしまった。雲に隠れる夜中の月のよう。
    詠み人
    紫式部(973?〜1014?)
    源氏物語の作者。中宮彰子に使える。源氏物語は当時から人気で、幾多の歌人がそれを題材にした歌を詠んでいる。
    「紫」は源氏物語に登場する紫の上から。「式部」はおそらく父の官位。
    出典
    『新古今集』雑上(1499)
    詞書
    早くより、わらはともだちに侍りける人の、年頃へて行きあひたる、ほのかにて七月十日頃、月にきほひてかへり侍りければ
    子供の時以来の友達が来たのにすぐ帰ったから詠んだ。
  58. ありま山 猪名ゐな笹原ささはら 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
    有馬山の猪名野の笹原に風が吹いて、そよそよと音を立てています。はい、そうですよ。あなたを忘れるものですか。
    詠み人
    大弐三位
    紫式部の娘。中宮彰子に使える。
    出典
    『後拾遺集』恋2(709)
    詞書
    かれがれなるをとこのおぼつかなくなどいひたりけるによめる
    「あなたがわたしを忘れていないか心配」に対して「わたしは忘れません」と返す。暗に「忘れたのはあなたのほう」と言っている。
    「ありま山」と「猪名」名所が2つも出てくる。
  59. やすらはで なましものを さけて かたぶくまでの 月を見しかな
    あなたが来ないと知っていたら、ためらわずに寝てしまったでしょうに。夜が更けて西に傾くまで月を見てしまいましたよ。
    出典
    『後拾遺集』恋2(680)
    詠み人
    赤染衛門
    赤染氏は公孫氏の末裔とされる氏族。
    詞書
    中関白、少将に侍りける時、はらからなる人に物言ひわたり侍りけり、頼めてまうで来ざりけるつとめて、女に代りてよめる
    他人のための代作。
  60. 大江山おほえやま いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず あま橋立はしだて
    大江山を越えて生野を抜けて丹後まで行く道が遠いので、まだ天橋立の地を踏んでみたこともありませんし、母からの文もまだ見ていません。
    詠み人
    小式部内侍(?〜1025)
    出典
    『金葉集』雑上(550)
    詞書
    和泉式部保昌にぐして丹後國に侍りけるころ都に歌合のありけるに小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかゞせさせ給ふ、丹後へ人は遣はしけむや、使はまうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむなどたはぶれて立ちけるをひきとゞめてよめる
    「大江山」「いくの」「天橋立」と名所が3つも入っている。普通よくない技法とされるが、即興で凝った歌が作れるのを見せるため、あえてやったのかも。
  61. いにしへの 奈良ならの都の 八重桜やへざくら けふ九重ここのへに にほひぬるかな
    かつて奈良の都に咲いていた八重桜が、今日はここ平安京の宮中に咲き誇っています。
    詠み人
    伊勢大輔
    百人一首における読みは「いせのたいふ」。大辞林だと「いせのおほすけ」「いせのたゆう」。
    出典
    『詞花集』春(29)
    詞書
    一条院御時、奈良の八重桜を人の奉りけるを、その折御前に侍りければ、その花を題にて歌よめとおほせごとありければ
    紫式部の無茶振りに、伊勢大輔が立派に答えた。
    「九重」は宮中を表す雅語。きっと「八重」より強い。
    「けふ」は「今日」と「京」の掛詞ではない。後者の歴史的仮名遣いは「きやう」であり、平安時代あたりだと発音も違っていた可能性がある。
  62. をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂あふさかの 関は許さじ
    真夜中に鳥の噓鳴きで騙そうとしても、函谷関はいざ知らず、われらが逢坂の関は決して通行許可を出しますまい。
    詠み人
    清少納言
    枕草子の作者。中宮定子に仕える。
    「清」は名字の清原から。「少納言」は当時の慣例に従ったなら父か夫の役職のはずだが、そのような記録はなく謎。
    出典
    『後拾遺集』雑2(939)
    詞書
    大納言行成物語などし侍りけるに内の御物忌にこもればとていそぎ歸りてつとめて鳥の聲にもよほされてといひおこせて侍りければ、夜深かりける鳥の聲は函谷關のことにやといひ遣はしたりけるを立ち歸り是は逢坂の關に侍るとあればよみ侍りける
    行成は三蹟の一人。
    女性が漢籍の知識をひけらかすのがはしたないとされたころ、それを気にしないどころか乗ってくれる行成。
  63. 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
    今はただ、恋を諦めますということだけを、伝言ではなく直接お伝えする方法があればいいのに。
    詠み人
    左京大夫道雅(藤原道雅/992〜1054)
    出典
    『後拾遺集』恋3(750)
  64. 朝ぼらけ 宇治うぢ川霧かはぎり たえだえに あらはれわたる 瀬々せぜ網代木あじろぎ
    夜が明けるころ、宇治川の霧が途切れ途切れに晴れて、一面に見えてくる、流れのあちこちに立てられた網代木。
    詠み人
    権中納言定頼(藤原定頼/992~1054)
    出典
    『千載集』冬(419)
    詞書
    宇治にまかりて侍りける時よめる
  65. 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
    嘆く力も無くなって、涙で乾く暇もない袖のことはさておき、恋の噂で落ちてしまう私の評判が惜しまれます。
    詠み人
    相模
    出典
    『後拾遺集』恋4(815)
    詞書
    永承六年内裏の歌合に
    涙で袖が乾かないとは大げさである。定番の言い回しなので、そんなに深刻に捉える必要はないのかも。
    花山院の「夜を籠めて 草葉の露を 分行けば 物思ふ袖と 人や見るらむ」という歌もあったり。
  66. もろともに あはれと思へ 山桜やまざくら 花よりほかに 知る人もなし
    私がそう思うように、私のことを懐かしく思ってくれ、山桜よ。花であるお前の他に知る人もいないのだから。
    詠み人
    前大僧正行尊(1057〜1135)
    僧正よりもえらい大僧正。
    出典
    『金葉集』雑上(512)
    詞書
    大峯にておもひもかけずさくらの花の咲きたりけるをみてよめる
  67. 春のの 夢ばかりなる 手枕たまくらに かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
    春の夜の夢のような戯れの腕枕のために、つまらない噂が立ってしまうのが嫌なのです。
    詠み人
    周防内侍(平仲子)
    出典
    『千載集』雑上(964)
    詞書
    二月はかり月あかきよ、二条院にて人人あまたゐあかして物かたりなとし侍りけるに、内侍周防よりふして、まくらをかなと、しのひやかにいふをききて、大納言忠家これをまくらにとてかひなをみすのしたよりさしいれて侍りけれは、よみ侍りける
    「かひなく」と「かひな」がかかっている。
    断るのも雅に。
    これの返歌も粋。「契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき」。
  68. 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半よはの月かな
    意思に反して、この辛い世を生きながらえたとしたら、懐かしく思い出されるのだろう。この真夜中の月を。
    詠み人
    三条院(三条天皇/976〜1017)
    第67代の天皇。
    目を患い、天運もなく、後ろ盾も弱い。ネガティブにもなろう。
    出典
    『後拾遺集』雑1(860)
    うき世は、憂き世と書いて、辛い世の中の意味。江戸時代になると「浮き世」となり、はかないけれど、必ずしも辛くない、むしろ楽しい世の中を指すようになった。
    退位の時に読んだ歌とされる。そこから死ぬまで1年ほど。ながらえることはできなかった。
  69. あらし吹く 三室みむろの山の もみぢ竜田たつたの川の 錦なりけり
    嵐が吹いた後の三室山の紅葉は、あたかも竜田川をおおう錦のようだった。
    詠み人
    能因法師(988〜?)
    歌枕を求めて諸国を旅した。
    京都にいながら「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」という名歌が浮かんだとき、引きこもって旅に出たふりをしてから発表した。
    枕草子の写本の一つ『能因本』を持っていた。
    出典
    『後拾遺集』秋下(366)
    詞書
    永承四年内裏の歌合によめる
    歌枕が二つ入っている。そこが能因法師らしいとして百人一首に選ばれたのだろう。
    地理的に三室山の紅葉が竜田川に流れるはずはない。
    この時代の嵐は激しい風とは限らない。
  70. さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ
    寂しさに耐えかねて家を出てあたりを見渡すと、どこも同じように寂しい秋の夕暮れだった。
    詠み人
    良暹法師(橘永愷)
    出典
    『後拾遺集』秋上(333)
    ここでいう宿は、山の中の一軒家だったらしい。
    「秋の夕暮れ」はとてもよく使われる締めの一句。中でも有名なのが「三夕の歌」だが、なぜか百人一首には入っていない。歌人はそろっているのに。
  71. 夕されば 門田かどた稲葉いなば おとづれて あしのまろやに 秋風ぞ吹く
    夕方になると、家の周りの田んぼの稲の葉が音を立てて、葦ぶきの粗末な家にも秋風が吹く。
    詠み人
    大納言経信(源経信/1016〜1097)
    この人も三船の才を持っていた。
    出典
    『金葉集』秋(183)
    詞書
    秋田を詠める
    田舎の秋風という題で詠んだ空想の田舎。
    秋の歌はさびしさを詠んだものが多いが、これはさわやかさが引き立てられている。
    「夕さる」の「さる」の漢字がわからない。
  72. おとにきく たかしの浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ
    名高い高師の浜の、無駄に寄せてくる波にはかかりませんよ。袖が濡れたら大変ですから。
    詠み人
    祐子内親王家紀伊
    出典
    『金葉集』恋下(469)
    詞書
    堀河院の御時艷書合によめる「人しれぬ思ありその浦風に浪のよるこそいかまほしけれ」かへし。
    艷書合という、恋文を読み合うタイプの歌合で誕生した歌。
    藤原俊忠の「人知れぬ思ひありその浦風に浪のよるこそいはまほしけれ」に対する返し。
    でも「あだ波」はひどいと思う。
  73. 高砂たかさご尾上おのへの桜 咲きにけり 外山とやまかすみ 立たずもあらなむ
    高い山の峰に桜が咲いた。里山の霞よ、どうか立たないでくれ。
    詠み人
    前中納言匡房(大江匡房/1041〜1111)
    出典
    『後拾遺集』春上(120)
    詞書
    内の大臣の家にて、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、「遥かに山桜を望む」といふ心をよめる
    山がたくさんくっついているときに、外側にあるのが外山。人里からしたら最も近い山になる。反対が奥山。
    「高砂」はここでは普通名詞。
  74. 憂かりける 人を初瀬はつせの 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを
    初瀬の山おろしよ。つれないあの人の、つれなさが激しくなれとは祈らなかったのに。
    詠み人
    源俊頼朝臣(1041~1111)
    出典
    『千載集』恋2(708)
    詞書
    権中納言俊忠家に恋十首歌よみ侍りける時、いのれともあはさる恋といへる心をよめる
    じゃあなんて祈ったんだろう。
    何事か祈ったという過去が、その結果に文句を言っている現在に、回想シーンのようにはさまる構造。
  75. 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年ことしの 秋もいぬめり
    お約束いただいた、させも草の話を命のように大切にしていましたのに、ああ、今年の秋も過ぎてしまうようです。
    詠み人
    藤原基俊(1060〜1142)
    出典
    『千載集』雑上(1026)
    詞書
    律師光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、たひたひもれにけれは、法性寺入道前太政大臣にうらみ申しけるを、しめちのはらと侍りけれとも、又そのとしももれにけれはよみてつかはしける
    息子を興福寺で働かせたかった藤原基俊は、そこの偉い人であった藤原忠通にお願いする。答えは「なほ頼め しめぢが原の させも草 わが世の中に あらむ限りは」。まかせとけ、ということだった。でも以来音沙汰なし。
    それに文句を言っている歌。まだ見込みがあるかもしれないので、なんとなく遠回しである。
  76. わたの原 こぎいでて見れば 久方ひさかたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波しらなみ
    大海原に漕ぎ出して見渡せば、雲と見間違うばかりに沖の白波が立っていた。
    詠み人
    法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通/1097〜1164)
    長い名前。分解すると、「法性寺」は住んでいたお寺の名前、「入道」とはお坊さん、「関白」と「太政大臣」は国の偉い役職、「前」とはそれをもうやめたと言うこと。
    保元の乱で後白河天皇についた。結果は勝ちで、忠通は氏長者の座を取り戻した。しかしそのとき頼った武士たちによって、のちのち貴族社会自体が衰退することになる。
    出典
    『詞花集』雑下(382)
    詞書
    新院位におはしましゝ時海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる
    藤原基俊との約束をすっぽかした本人。知るかとばかりに呑気な歌を詠む。
  77. 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川たきがはの われても末に あはむとぞ思ふ
    流れが速いため、岩にせき止められる滝川は別れて下流でまた合流します。私たちも、今は別れてもいずれまた会いましょう。
    詠み人
    祟徳院(崇徳天皇/1119〜1164)
    第75代の天皇。後白河天皇と対立して、保元の乱を起こすが、負けて讃岐に流される。
    死後、日本最強の怨霊になったと言われる。
    江戸時代の小説『椿説弓張月』では、保元の乱で味方だった源為朝を怨霊の力でたびたび助ける。
    出典
    『詞花集』恋上(229)
    これも落語になっている。『千早振る』のご隠居と違って、こっちの若旦那は歌の意味をちゃんと知っていたようだ。
  78. 淡路島あはぢしま かよふ千鳥ちどりの 鳴く声に いくざめぬ 須磨すま関守せきもり
    淡路島から渡ってくるチドリの鳴き声に、何度夜中に起こされただろうか、ここ須磨の関守は。
    詠み人
    源兼昌
    出典
    『金葉集』冬(270)
    詞書
    關路千鳥といへる事をよめる
    源氏物語の「友千鳥 諸声に鳴く 暁は ひとり寝覚めの 床もたのもし」を踏まえた歌。
    淡路島は、崇徳院が流された讃岐に近い。
  79. 秋風に たなびく雲の 絶え間より もれづる月の 影のさやけさ
    秋風にたなびく雲の切れ間からこぼれ出てくる月の光のなんと清らかなことか。
    詠み人
    左京大夫顕輔(藤原顕輔/1090〜1155)
    定家の一族とはライバル。
    藤原北家魚名流。遡っても有名人がぜんぜん出てこない。
    出典
    『新古今集』秋上(413)
    詞書
    崇徳院に百首哥たてまつりけるに
    技巧を駆使する定家一派とは対照的にわかりやすい歌。
    月そのものじゃなく、そこから出る光に注目している点が新しい。
  80. 長からむ 心も知らず 黒髪くろかみの 乱れてけさは 物をこそ思へ
    あなたの心が末長く変わらないかどうかも分からず、今朝は黒髪も乱れ、心も沈んでいます。
    詠み人
    待賢門院堀河
    出典
    『千載集』恋3(802)
    詞書
    百首歌たてまつりける時、恋のこころをよめる
    黒髪の反対は白髪。つまり若さの象徴。
  81. ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる
    ホトトギスが鳴いていた方を眺めると、ただ有明の月だけがそこに残っていた。
    出典
    『千載集』夏(161)
    詠み人
    後徳大寺左大臣(後徳大寺実定/1139〜1191)
    「後」がついているのは、祖父が「徳大寺左大臣」だったから。
    詞書
    暁聞郭公といへるこころをよみ侍りける
    杜鵑、時鳥、子規、不如帰、杜宇、蜀魂、田鵑。ぜんぶほととぎす。
  82. 思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり
    悩み疲れましたが、それでも命は保っています。そんなとき、辛さに耐えきれずにこぼれ落ちたのは涙でした。
    詠み人
    道因法師(藤原敦頼/1090〜?)
    出典
    『千載集』恋3(818)
    どうにか健康な体と、疲れきって涙を流させる心との対比。
  83. 世の中よ 道こそなけれ 思ひる 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
    世の中に逃げ道はないのだな。思うところがあって入った山の奥にも、そうだよとばかりに鳴く鹿の声が聞こえる。
    詠み人
    皇太后宮大夫俊成(藤原俊成/1114〜1204)
    定家の父。
    名前は訓読みで「としなり」だが、音読みで「しゅんぜい」と読まれることも多い。学問上重要なことをした人物にたまにある、有職読みという読まれ方。定家もその点は一緒。
    出典
    『千載集』雑中(1151)
    詞書
    秋比山寺にてよみ侍りける
  84. ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき
    生き長らえたら今の時代を懐かしく思い出すのだろう。辛いと思っていた昔が今は恋しいのだ。
    詠み人
    藤原清輔朝臣(1104〜1177)
    藤原顕輔の息子。
    出典
    『新古今集』雑下(1843)
    やはりわかりやすい歌。
    いつ詠んだかで2つの説があり、どちらも実際本人が辛い時期だったため、決め手がない。
  85. もすがら 物思ふころは 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり
    一晩中思い悩むこの頃は、なかなか夜も開けず、暗いままの寝室の隙間さえつれなく見えた。
    詠み人
    俊恵法師(1113〜?)
    出典
    『千載集』恋2(766)
    詞書
    恋歌とてよめる
    来ない人を待ちわびる歌。
    明け方になれば有明の月か太陽からの光が入ってくるはず。
  86. 嘆けとて 月やは物を 思はする かこちがほなる わが涙かな
    さあ嘆けといって、月が私に物思いをさせるのだろうか。そんなはずはないのに月のせいにしている私の顔に、涙が流れる。
    詠み人
    西行法師(佐藤義清/1118〜1190)
    もと北面の武士。
    日本全国を旅する。のちに松尾芭蕉もその足跡をたどることになる。
    どういうわけか人造人間を作ったという伝説がある。撰集抄「西行高野の奥に於いて人を造る事」
    出典
    『千載集』恋5(929)
    詞書
    月前恋といへる心をよめる
    北面の武士は貴族のガードマンなのでストレスがたまりやすい。
  87. 村雨むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ
    にわか雨が降って槙の葉についた水滴もまだ乾かないところに、霧が立ち上る秋の夕暮れ。
    詠み人
    寂蓮法師(藤原定長/1139?〜1202)
    俊成の養子だったが、定家が生まれたため出家した。
    出典
    『新古今集』秋下(491)
    詞書
    五十首哥たてまつりし時
    素直な情景描写。
  88. 難波江なにはえあしのかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき
    難波の港の葦の刈り根の一節のように短い、旅の宿の一夜のために、身を尽くしてあなたを慕い続けるべきなのでしょうか。
    出典
    『千載集』恋3(807)
    詠み人
    皇嘉門院別当
    詞書
    摂政右大臣の時の家の歌合に、旅宿逢恋といへるこころをよめる
    歌会で詠んだ歌。つまりフィクションである。
  89. たまよ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
    私の命よ、消えるものなら消えてしまえ。生き続けていたら、恋心を隠す力が弱ってしまうかもしれないから。
    詠み人
    式子内親王(1153?〜1201)
    後白河天皇の娘。妹の方。斎院という神に仕える仕事に就いたために一生独身だった。
    出典
    『新古今集』恋1(1034)
    詞書
    百首哥の中に忍恋を
    恋をテーマに詠んだ歌。フィクションなのだろう。
  90. 見せばやな 雄島をじまのあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず
    これをあなたに見せたいものです。雄島の漁師の袖だって、ひどく濡れますが、こんな風に色が変わったりしません。
    詠み人
    殷富門院大輔
    後白河天皇の娘。姉の方。やっぱり斎院。
    出典
    『千載集』恋4(886)
    詞書
    歌合し侍りける時、恋歌とてよめる
    源重之の本歌取り。そっちは濡れるだけ。
    色が変わるのは、血の涙だからかもしれない。
    「見せたい」なので、なんらかの事情で「見せられない」ことも示唆されている。
  91. きりぎりす 鳴くや霜夜しもよの さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む
    コオロギが鳴く霜の降りる寒い夜に、粗末なむしろの上に自分の着物だけを敷いて、私は独りで寝るのだろうか。
    詠み人
    後京極摂政前太政大臣(藤原良経/1169〜1206)
    九条良経とも。藤原氏が増えすぎたので、このころから名字が使われるようになった。
    出典
    『新古今集』秋下(518)
    詞書
    百首哥たてまつりし時
  92. わが袖は 潮干しほひに見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわくもなし
    人は知らないでしょうが、私の袖は、引き潮でも見えない沖の石のように、乾く暇もないのです。
    詠み人
    二条院讃岐(1141?〜?)
    百人一首では最後の女性。
    出典
    『千載集』恋2(760)
    詞書
    寄石恋といへるこころをよめる
    この歌が良かったので、「沖の石の讃岐」というあだ名がついた。なんか一発屋みたいだ。
  93. 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟おぶね綱手つなでかなしも
    世の中は変わらないでいてほしいものだ。渚を漕いでいく小舟の漁師が綱手を引く様子が愛しい。
    詠み人
    鎌倉右大臣(源実朝/1192〜1219)
    鎌倉幕府を建てた源頼朝の息子。武士をまとめる力は無かったが、歌人として認められていた。
    出典
    『新勅撰集』羈旅(525)
    歌とうらはらに、実朝は暗殺されてしまう。
  94. み吉野の 山の秋風 さふけて ふるさと寒く 衣うつなり
    吉野の山に秋風が吹く夜更け、かつての都では砧で衣を打つ寒々とした音が聞こえる。
    詠み人
    参議雅経(飛鳥井雅経/1170〜1221)
    蹴鞠の達人。飛鳥井流の祖。
    子孫は最後の勅撰和歌集の選者。
    出典
    『新古今集』秋下(483)
    詞書
    擣衣の心を
    本歌は坂上是則の「み吉野の 山の白雪 つもるらし 古里さむく なりまさるなり」
    吉野は天皇の離宮があった吉野のこと。
  95. おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つそまに すみぞめの袖
    身の程知らずにも、この世の全ての人々に救いの覆いをかけようとしている。わが立つ杣と詠われたこの比叡山に住み始めた私の墨染の袖で。
    詠み人
    前大僧正慈円(1155〜1225)
    愚管抄の作者。
    出典
    『千載集』雑中(1137)
    「わが立つ杣」とは、比叡山のこと。最澄の「わが立つ杣に冥加あらせたまへ」から。「杣」だけだと、材木用の山を表す。
    百人一首では珍しく前向きな歌。
    決意が実って、のちに天台座主になる。
  96. 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
    ふりゆくと言っても、落花を誘う嵐の庭に桜吹雪が降ってくるのではなく、私が老けていくという話だった。
    詠み人
    入道前太政大臣(西園寺公経/1171〜1244)
    西園寺家の実質的な祖。
    法性寺入道前関白太政大臣の下位互換みたいな名前。
    出典
    『新勅撰集』雑1(1052)
    詞書
    落花をよみ侍りける
    昔は古くなるとか年をとることを「旧る」と言った。
    花が雪のように「降る」のを見て、自分が「旧る」のを感じた、みたいな意味。現代語訳しづらい。
  97. 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩もしほの 身もこがれつつ
    待っても来ない人を待って、松帆の浦で夕方の風のやむ時間帯に焼かれる藻塩のように、私の心も焦がれている。
    詠み人
    権中納言定家(藤原定家/1162〜1241)
    この小倉百人一首を選んだ人。当然ながら、和歌の名人。
    気晴らしに、百首の和歌を自由に選んで書いて自宅の障子に貼ったのが、百人一首のはじまり。
    出典
    『新勅撰集』恋3(849)
  98. 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
    風がそよぐならの小川の夕暮れは、すっかり秋のようだが、禊の行事だけがまだ夏である証拠だったよ。
    詠み人
    従二位家隆(藤原家隆/1158〜1237)
    猫間中納言の息子。
    藤原定家のいとこにも藤原家隆がいるが別人。同年代でまぎらわしい。
    出典
    『新勅撰集』夏(192)
    ならの小川とは、京都の御手洗川のことと言われるが、はっきりしない。少なくとも奈良県の川ではないらしい。
    みそぎとは、水で体を洗うなどして、罪や災いを洗い流すための行事。ここでは夏越しの祓のことらしい。六月晦日の行事なので、当時の暦だと夏の末日。
  99. 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は
    人のことが愛おしかったり恨めしかったりします。世の中をつまらないと思うゆえに、あれこれ考える自分にとっては。
    詠み人
    後鳥羽院(後鳥羽天皇/1180〜1239)
    第82代の天皇。貴族の権力を取り戻すため鎌倉幕府に戦いを挑むものの負けてしまった。これを承久の乱という。
    定家とは和歌仲間だったが、のちに対立、承久の乱でも敵同士だった。
    出典
    『続後撰集』雑中(1202)
  100. ももしきや 古き軒端のきはの しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
    宮中の古くなった軒の端にシノブが生えている。昔の時代のことは、偲んでみても偲びきれない。
    詠み人
    順徳院(順徳天皇/1197〜1242)
    後鳥羽上皇の息子で、第84代の天皇。父の計画に巻き込まれ、最終的に佐渡に流された。
    承久の乱の失敗により、貴族の時代は終わってしまった。
    出典
    『続後撰集』雑下(1205)
    華やかだった昔をもう一度思い描いたところで、百人一首もこれでおしまい。

小倉百人一首について

現代からしたら全部大昔に思えるが、六百年前から編纂当時までを年代順に振り返る構成になっている。
関係の深い歌人が二人一組になっている。
歌は、内容が本人らしいかや、全体の構成も考えて選ばれているように思う。
詞書がなく、首々の歌の解釈は読む人に任せられる。

参考文献

吉海直人『一冊でわかる百人一首』(成美堂出版)
あんの秀子『百人一首の100人がわかる本』(芳文社)
あんの秀子『マンガでわかる百人一首』(池田書店)
佐佐木幸綱『百人一首のひみつ100』(主婦と生活社)
杉田圭『超訳百人一首 うた恋い。』(メディアファクトリー)
吉海直人『百人一首大事典』(あかね書房)
桐野作人『猫の日本史』(洋泉社)
武光誠『猫づくし日本史』(河出書房新社)